実母による毒親マウント
この記事を書くにあたって何回涙を拭い、何枚のティッシュを使ったのかは誰にもわからない。
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大学2回生。ひとり暮らしでの2回目の冬のことだった。普段通りにバイトから帰って靴を脱ごうとしていると、ぽたた、と涙が床に落ちた。
えっなんで、なにこれ涙止まらない、何の涙?
涙は止まるどころかどんどん溢れ出し、私は玄関で半分靴を履いたまま声を出して泣き崩れた。
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その日から眠れない全身が痛い首が座らないの地獄の日々が続いた。泣く時はいつも、幼い頃の自分(泣いたら叩かれるから服の袖を噛んで耐えていた)を憂いての涙だった。
耐えられず、母にLINEした。 「なぜか涙が止まらなくなって、夜眠れへん」
すると母は 『梅田(大阪)で今度会おう」と言ってくれた。
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約束の日が来た。風が強い。時間に遅れると叱られるため、10分前には着くようにした。
いつもの約束の場所に着いた。母はまだ来ていない、よかった……。 すると、向こうから母が歩いて来、『!!!…あっちの方でずっと待っとったんやけど…?!!』と言った。しまった。やらかした。
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そのあとは苦痛のショッピング。無印良品で5000円もするパジャマを買ってもらった。小さい声で「あ、ありがとう…」と言う。
お昼ご飯を食べようか、となった時、鬱病にかかったことのある人ならわかるだろうが、自分の食べたいものがわからない、というか何も食べたくない。
ううんううんとレストランフロアの看板を見て悩む。 『はよしてぇなぁ、何食べたいん?』
う、まずい、泣きそう。。。
『!!!なんで泣くん…?、!?』
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結局その辺の店に入って食事を済ませる。 いやな満腹感をかかえながらスタバへと向かった。
ここからが本番である。
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スタバにて 私「涙が止まらなくなるときがあるんや。ずっと子供ん時のこと考えてもうて…」
母「私が悪いっていうんか???」
母「ようそんなこと言うわぁ。私な、じいちゃんにシバかれまくって育ったんや。」
ど、毒親マウントがはじまった
母「じいちゃんが仕事終わって飲みに行って帰ってきて私の部屋の電気が消えとったら、あのジジイ、「おい、何しとんや」って寝とう私を引きずり出してバチバチに叩くんや。勉強せんかい、って」
私「そうなん…」
その他母の毒親エピソードはあったと思うが記憶から消えてしまっている。
締めに母はこう言った。
『まあ、これが私の闇の部分や』
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完全に萎縮しきってしまった。
私おかあさんに叩かれたの痛かった。おかあさんなんであんなに叩くん?あとクーラー消し忘れて1万円罰金取られたのも怖かった。あのお金はどこに行ったの?おかあさんが怖いこわいよおかあさんこわい……………
言いたかったことをぐっと飲み込み、だらりと頭を下げて言った。
「こんな病気になってしまってごめんなさい」
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母『まあアンタが睡眠障害なのはわかった。心療内科行きぃ。お父さんには秘密にしとくから。あの人心配性やろ??』
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母と別れ、それぞれの家へと帰る。
帰り道は脳が灰になり、まっしろだった。 無心で電車に揺られる。
自宅に着くと共に涙が溢れた。玄関にへたり込んで泣いた。 どうして、どうして言えなかったのか。毒親は連鎖するものなのか?言いたかった。言えなかった。負けてしまった。そういえば口喧嘩でおかあさんに勝てたことは一度もなかった。お金じゃんじゃんくれて芸大に奨学金なしで通わせてくれるおかあさんがこわかった。(とても有難いことなのだが)
高校時代、授業が終わるや否や自動車教習所に行き1時間だけ教習を受け、その足でバイトに行って10時ごろによろよろと帰宅した日。「疲れた…」と溢すと、「何言うとん、私なんか朝の5時から晩の6時まで働いて、晩御飯まで作っとんやで?!」
この日から、夫に「疲れた時は疲れたって言っていいんだよ」と呪縛を解いてもらうまで、私はいくら疲れても「疲れた」と言うことができなくなったのだ。
言って欲しかった。『私も疲れたけどアンタもアンタなりに疲れとるよね。お互い今日もお疲れ様』と。
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以上が私の「母に」毒親マウントを取られたエピソード。
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ねえ、ねえ先生、私は毒親になるんでしょうか?
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